ちらかりほうだい。中身はない。

とっ散らかりながら、すきなものはすきとエモる場所(稀におかん)

よその沼が、NINO’s diaryを見た。

 

 

時間が解決した。ってことなのか、ただただ知らなかったってことなのか。

 

私は、ここしばらく‥多分それこそ数年。

ニノさんがわからなかった。

 

ずっとニノらしい!って思ってきたことも、あれほど書籍化を熱望してた一途も。

どこかのボーダーで、いつのまにかちゃんと話してもらえないっていうストレスにすり替わっていって、彼らしい言い回しを「ずるいなぁ。」と思っていた。

 

なんで、どうして。言葉に出来る人なのに、いつも表面を撫でるみたいな言い回しで終わらせちゃうんだろ、って。

 

追い討ちのように、5×20は11月札幌参戦だった私と友はその直前のニュースに唖然となってしまった。何故だ。初の遠征。もしかしたら最後かもしれない参戦(と、覚悟してた。実際、そうなっちゃった。)その直前に同行のにのあい担は感情の仕舞いどころを失っていた。

なんで、なんでと。

 

そんな想いが多分未だにずっとあったからだろうと思う。

Voyage NINO's diary 冒頭の

 

僕は二宮和也

 

このナレーションと映ったカットで、

あぁ、もう。ズルいわ。

‥と。

また、ちゃんと語らない。

このフィルム感ですでに一枚演出が入った。もう、オブラートの向こうだ。

語るべき事柄の上にふわっと布を載せて、ほら丸いでしょ?丸だって語らなくたって、見えてるよね?丸が。

そんな感じに終わるんだろうなって。

(ひどいな、わたし。)

 

智さんのダイアリーが、8割酔っ払ってやっとこぼした想いの吐露なのだとしたら。

それに安心してしまう私は、ニノの言語は難しすぎたのかもしれない。

 

だけど。

そんな気持ちで見ながら、ほぼほぼの時間を使って自分が作った曲の数々、撮った写真、上書きじゃなくて、時系列で残したデモに費やして。

それを流しながら語るニノは、見覚えがありすぎた。

同じような遊びを酒飲んでやっちゃう同世代だからだろうか。

自分が書いてきたモン読みながら酒飲んじゃうのは私も同じだからだろうか。(クオリティは問わない)

 

語るべき事柄の、伝えたいものは言葉にしてしまったらば完結してしまう。

それはあなたの中で、ではなくて自分の中で。

伝えねばならないのに、人に自分の回答を置いてしまう。

自分の得たものではなく。

あなたの回答を、と。

 

そんな感覚なんだろうな、と。

ほんの少し、わからん‥が解けていった気がした。

 

丸く見えるそのものの、真裏は三角かもしれないじゃないかと。

 

だから。

締めに

 

僕は嵐の二宮和也

 

このナレと、

 

ね?

 

の背景が真っ暗なのを見て、やっぱり。

ズルいなぁ、と思った。

 

二宮和也個人の話をしていくから冒頭で名乗ってるのに、「嵐の」二宮和也って締めてしまうのは、その点と点の置き方はやっぱりものすごいニノミヤカズナリだ。

個人からのフォーカスで、通っていったのはニノの視点から見た嵐で。僕の見た風景で。

その出口は「嵐の二宮和也」なのだから。

この演出にニノが関わってなかったら嘘だ。

それくらい。

 

自分の作ったものを通して、その目を通して、断片をあちこちにばら撒いて。

ほら、何が見える?

って言われたみたいだった。

 

バチくそにニノだった。

私がずっと、わかんない!なんで!とギリギリしてた二宮和也そのままだって言うのに。

 

なんでだろうね。

 

 

見えちゃったよ。

断片が降り積もってできあがった、形が。

 

あまのじゃくとか、ひねくれものとか。

そうじゃないね、多分。

超絶器用に言葉を操って、相手の一歩も二歩も先の答えを用意しちゃうこの人は多分。

 

とても、怖がりさんなんだ。

 

大好きだ、大事だ‥なんて、陳腐な言葉に聞こえるくらいに。

 

 

 

 

 

なんて

 

 

ね?