ファンの子をやってると、どこかで「これは言ってもいいやつ?」となるものが時折あって。
(まぁまぁギリギリの話題も零したりすることもあるのだけど)
その一つが、勢いでTwitterにてこぼれてしまったので、書き残すこととする。
早速だけど、嵐は復活するのか。
私の感覚でなら、復活はする。
ただ、それは2020.12.31の嵐ではない。
この話を深追いするには、自分の中でぬーんと佇む記憶から話さねば。
私はかつて、TMNが大好きで当然のように後輩的なaccessもハマり、その流れがTMRやらレイジーナック を追いかける青春を産んでいくのだけれども。
残念ながらTMNも accessも所謂解散、休止の状態になった。その頃の私の死に具合は過去どっかで触れた気もするので割愛するとして。
しかし、その両者はどちらも再始動してるのや、今。
accessを例に出せば7年の沈黙を経て、再始動したあとは、コンスタントにツアーもリリースも途切れなく行われている。
しかもaccessと並列で、浅倉大介も貴水博之もそれぞれの活動をおこなっていて、個々で確立してる上でのaccessがある。
ユニットの形としては何にも変わってない。
でも、明らかに違った。
何がと言われてもわからん。ただ嗅覚と記憶が言う。私の宝物であったものと、今あるものは同じではない。
歳を重ねたのもあるだろう。経験が音楽に出て当然なのだから、あの頃と同じ、あの頃の続きがあるわけではない。大ちゃんもHIROも冷凍保存されていたわけではないのだから。
だから。
私は、今のaccessをほとんど知らない。
でも、この復活していわば“パーと2”である今のaccessに救われたのも確かだ。
25周年という、復活しなければなかった時間にぽかりと空いた穴を埋めてもらった。
(過去記事参照)
そう思うと、嵐にも同じことが言えるだろうと思う。曲を描いてるわけではないしとか、そういう所では、直接的なものからはずれるかもしれないが。
例えば、2024年25周年に噂や予想通りに復活したとして。
そこからの「嵐」は「嵐」と同じかと思えば‥やはり違うと思うんだ。
私の肌感でしかないが、やはり10周年で嵐は色々と変わった。
それが色々と揶揄の元だったりすることも承知の上でだけども、確かにあそこで舵を切ったと思う。
なぜ?と言われれば、すんなりと思い浮かぶのは、見るものが変わったのではないかなと言うこと。
翔さんの言葉を借りるなら、ひたすらに種をまいていた時期から、芽を出し葉をつけ始めたものを育てる期間に変わったなのだろうと。
例えば、ざっくりと10周年までを“第1章”としたらならば、それ以降は“第2章”。
宮城でHip pop boogieの歌詞を翔さんが変えたように、その実感は本人たちにもあったように思う。
撒いてた 種たち咲いてく
Somebody Everybody
今 時代は手の中に
↓
咲いてる 花たち抱いてるあんなに 夢描き
今 未来は瞳の中に
育てた花も見事に咲き、その花たちで魅せきったのがJaponism。それを抱えて嵐が嵐へ思いを馳せたのが「untitled」だったんだと思う。
Are you happy?のような粒揃いで多方面に広げたアルバムはいま振り返るに、その花たちの品種改良だっのかも。
生まれた花たちでどんな花束がつくれるのか、新たな花を生み出せるのかと試行錯誤してる過程そのものだったんじゃないかな。
実際、それ以降の‥特にカップリングはかなり実験的な要素が強かった。歌割りにも曲調にしても、嵐の定番が通用しない、ひとつひとつがパズルを組み替えるような感覚があった。
その違いを引き出したのは、Milesではないかと思うし、あゆはぴだったんだなと。
(今思えばだけど。こんな実験的なアルバムに、嵐っぽさも、目新しさも詰め込んで、更には作り上げた「嵐」の定型をぶっ壊そうとしてる作品に「Are you happy?」ってつけるのものすごい野心と庇護じゃないかと思うよ)
つまり。
ものすごく細かく分けるのならば、Japonismで第2章は完結。あゆはぴからは“第3章”‥であったのかな。
この時は。
先にも書きましたけど、untitledはあまりにも当時から意味深だったから、一つ一つをやたら記憶してる節がある。まず、無題とつけたこともあるけど、CMで言わんとしてることは明らかなリセットだし、「未完」が指すものはやっぱり区切りだったと思うんだよ。
となると、嵐“第3章”であり、最終章は完結したんだなと。だから、嵐会やったんじゃないだろうか。だからUBのほんとの意味は秘密で、スタンドバイミーなのではないか。
ただ、これは嵐が嵐を閉めたという感覚の話で、そのあとの2019と2020がクリエイティブでなかったのかといわれたら、全くもってNOではある。
Twitterではボーナストラック、長いエンドロールに映る、その後のお話‥と書いたのだけれど。それも言いたいことの一端ではあったのだけれども。
19.20の嵐は、ARASHIでもあったし、翔さんの歌詞を引用するならば、やっぱり種を蒔いていたんだなと。
咲いて抱いた花から生まれた種をまき、
ファンの子たちとの時間を濃くし、
嵐が嵐らしくある事
を全て並列で進行させていたんだろうな。
もしも。
噂のように、勝手な期待のように2024年、奇しくも25周年に再度嵐が動いたとして。
それはおそらく、同じではない。
あの頃の続きではないし、あの頃の5人ではない。
今まで以上に、個々の人生を生きて別々の軸を持つ男たちが集まった、別の物語だ。
映画でいうなら、「嵐-Arashi-2」で登場人物は同じでも別物だ。
だからこその、This is 嵐であって最後の5人の顔であって。
Voyageで、楽しかったよねと愛おしく話すじゅーぅんと頷く智であって。
それで良いと思う。
そうあるべきだと思う。
散々物語だの第何章だの言ってきたけど、結局のところ5人とも人間なのだ。
今、呼吸するこの時間と同じ時間に呼吸してる、リアルタイムな男の人なのだから。
唯一、untitledLiveで披露されなかったアルバム曲「ありのままで」の歌詞を見る。
そしたらなんで、セトリに入らなかったのかがうっすらわかる気がする。
肩の力緩くして、それでも共に歩こうというのはあの時点でファンの子に渡すには未完との矛盾があったし、裏では話し合っていた時期かと思うと嵐が嵐に渡すにも曖昧すぎる。
(いや、もしかしたらば。それが話し合いのなかにあった“もう一つの結果”だったのではないかなと思う)
あの曲を、5人で歌う時がくれば、その時が本当に次の嵐なのだと思う。
ドーム6日間とか、冠番組何本とか、そうじゃなくていい。
嵐が、嵐おもろいねって肩組んでぽてぽて歩いていけるのなら。
そんな時間を見ることができる未来がもしくれば。
だったらば。
やっぱり進まなければ、追いつかない。
私こそ、同じ場所には止まれんのだ。