ちらかりほうだい。中身はない。

とっ散らかりながら、すきなものはすきとエモる場所(稀におかん)

休止から半年が過ぎて、やっと盤を観た日の話

 

2021年が半年過ぎようとしている。

つまり、愛おしさの権化大野智がお休みにはいって半年が経つ。

 

半年って、ここ最近の体感では「秒」。

いや、ちょっと言い過ぎか?

でも、不意に見たカレンダーが6月の下旬を示したのを見て、早。となるのはもう、アラフォーの積み重ねた日々で分母が、それなりのサイズになったが故だろう。

やむなし。

 

けれど、私はそこでセンチメンタルなスイッチを入れてしまった。

智さんが見えなくなって、半年。

この半年も、同じ体感だったな、と。

やたら長くもなかった。

ただ、ただ、いつものように時は流れたんだ。

そのことにホッとした。

で、そうあるべきなんだろうなぁ‥と思うと、やっぱり時の流れは優しいものだなぁと。

 

休止発表の直後から(なんなら、その前1年くらいずっと)、なんでだか微妙に頬が固かった智さんの表情が、発表半年過ぎたあたりでとても柔らかくなった気がしたことも思い出した。

 

ならばきっと、今頃とても気持ちが楽になって“やりたいこと”をやれるようになってるのかもしれないなぁと。

コロナ禍が悔やまれるけれど、そうだといいなぁとなんだか、すごいホッとした。

単純な時間的区切りなのかもしれないけれど、なんか妙にホッとした。

(きっとジャにのでの、にのみーの発言もあったからだと思う。)

 

現金なもので。

 

きっとたのしくすごしてる

幸せでいてくれる

護られて、護ってる

大丈夫

 

と、言い聞かせるように己の中に落とし込む不安感が、フワッと和らいできたら、「嵐に会いたいなぁ。歌い踊る、智さんに」とじんわり思って驚いた。

 

怖くてたまらんかったのです.

ずっと。

untitledはかろうじて、junctionのないYouTubeバージョンならみれた。

でも5×20は2018をどうしても再生できずに今いる。

 

なんというか。

答え合わせのような考えが、どんどん勝手に湧くだろうと。

ライブDVDを見て、単純に楽しくて幸せでワクワクしてた記憶が「そっか、この時はもしかしたら」「あぁ、だからこう言う風に」とオタクのこじつけ100パーセントみたいな解釈をどんどん上乗せしてしまうだろうと。

 

そうなったら、多分楽しいだけだったその想いってのは、もう戻ってこないだろうな、と。

 

解釈癖のあるオタな私は、それが怖くて見れなかったずっと。

untitledのYouTubeバージョンがみれたのは、最初っから怖かったからだと。untitledは「未完」事変でもそうだし、なんならuntitledって名前を知った瞬間から怖かったから。

むしろ答え合わせが、必要な世界だったんだろうな、私的に。

それでもjunctionは、なぜjunctionと呼んだのか?とかまで考えだして中身も相まってドツボに落ちるから無理。

 

 

 

なので。

半年経って。 

 

あ、Japonismみたい。

暁がみたい。

 

と思ったのは、確実に時に癒やされたのと。

半年経ってとてもやーからく笑った智さんのことを思い出したからなんだろうな。

 

休みの日に、ライブDVDを選んでいそいそと再生する。

チャプターじゃなく、最初から観て好きなとこ、たまらんとこをリピートする。

あぁ!スキーココスキーってわたわたするテンションを、ひたすら書き残すんだ!と、ブログ開けたら過去の私がもう十分にやっていて、ほぼ同じことを言っていて、変わらない己のアンテナにちょっと笑えた。

 

それから、嬉しかった。

脳内では槇原敬之が歌う。

 

好きなものをすーきーとー

言える気持ちーだきしめてたいー

 

多分、私今日、抱きしめた。

 

発売発表されて、必死こいて予約したドキドキも。フラゲ日に休みとるの忘れて落ち込んだのも、パッケージ初めて開けた時のニヤニヤした気持ちも。

それから時が経って

懐かしいな‥と思う気持ちも。

やっぱ大好きだなぁ‥とじんわり沁みる、あったかいものも。

 

2015年。Japonism。

暁はやっぱり美しくて、せつなくて。

歌詞を追う振りというのが、こんなにグッとくるのだなぁと。

つま先も爪の先まで行き届いた舞は、やっぱり神事のようで、美しければ美しいほどに遠くなる不思議。

 

それから、心の空の圧巻さ。

嵐16年目。

TIMEの時のような、熱さがありました。

一個上のフェーズに上がったかのような。

まさにThis is嵐な気概を感じたし、ぴんっと糸が張り詰めるような緊張感もあって、それがとても前向きに作用しているような。

そんな感覚でした。

その真っ只中の当時は、そんなこと思いもしなかったから、多分時が経ったことの醍醐味は解釈癖のある私にとれば、この休止の今とても意味があることと思えてきた。

 

新しい嵐が世に出ないと言うことは、

それを励みに生きてた身として、怪我をしても苦しくても、新たな癒しがなければ既に身となった過去のもので自己治癒するしかないのだと、しんどい事があるたびに呆然としたけれど。

 

私は今日、Japonismみてて思いました

智さんの顔の輪郭、耳の下あたりからの首あたりが、まるで大理石のようで蕩けてると。

そんな彼が、マスカレードのタンゴも昭和歌謡もジャニーズイズムもごった煮かえした世界を見事にまとめ上げた振りつけをし、水吹いちゃえ!って演出するなんだか舞台演劇のような感覚も、やっぱ大好きだなぁ!って。

 

それは新たではないけど、改めて沸いた「たまらん」って気持ちで。

 

私は今日久しぶりに、幸せだーと思いました。

嵐だいすきだなーと。

智さん、だいすきーと。

それがうれしーと。

 

明日から、また頑張る。