ちらかりほうだい。中身はない。

とっ散らかりながら、すきなものはすきとエモる場所(稀におかん)

voyage #16 大野智って言う愛の事

 

 

初めて聞いたとき、全身にゾワッと何かが走った。でも、あまりの情報過多とあらゆる感情の波が湧き出る状態だったから。

ちょっとまて。一旦落ち着こう。

これは今は咀嚼できない。

それよりも洪水のようなこの溢れ出まくるものを、まずは整理しよう。

話はそれからだ。

 

と、私の中で “一旦、保留” にしていた言葉がある。

 

Voyage 「Ohno's diary」、その中の

 

ずっと、嵐の事しか祈ってないの、俺。

 

この話をしたい。

じゃぁ、一個ずつ零してみようかなと思う。

夏も終わるし。

 

 

 

そこに行く前にひとつ。究極のワードがある。

それこそが、

「愛とは僕です」。

そう言ったのはどこかネタも含んでいただろうけど、言い得て妙。

大野智は、愛の人だと私は思ってる。

あの愛され体質、尽くされ具合からしてもきっと想像に難くない。多分まちがえてない。

けれど、その根幹はむしろ智本人が「愛し、尽くしたい人」だからだと割と真剣に思っている。その片鱗がずいぶんと、見え隠れし始めたと同時に、心配も尽きなかったけれど。

ただ、彼の愛のカタチ(あくまでファンの子としての視点として)は、あまり主張しないタイプのものだ。伝わりにくいかもしれないし、届きにくいのかもしれない。

 

そこに居続ける。

愛されてることも、尽くされることも拒否しない。

 

と言う、タイプの愛情は。

 

でもね、これはものすごい懐の深さと信頼がないとできない事だと思うんだわ。

アイドルなんだから当然!とか、そう言う尺度の話はのちに回収するけども、さらにはファンの子へと、メンバーへが同じラインでまとめられるものではないとは思うんだけど。

ただ、カタチとしては同じvoyage 16の中で相葉さんが語ったことに証明される。

 

1番上に立ってる人が、

1番自分を捨てなきゃいけないっつうか。

もうそこを守るために、すべてを捧げる人だから。

 

ファンの子がどんなカタチで、智さんや嵐を愛したとしても、本当の自分がどうかよりもその愛を受け止め続けてくれた。

その姿を、メンバーもずっと理解していた。

ニノが24時間テレビの手紙で言った、「本当はひとりでいたいのに」と言うのも同じで。

 

お土産にどうぞ、と車のトランクから薔薇の花束出してくるような不器用な愛を渡すのでもなく。

どんな条件でも「飲もうじゃないか!」と受け入れるんだから受け入れてと懇願する愛でもなくて。

彼が唯一向ける愛は、自分発信というよりむしろそんな様々な愛を、微笑んで受け取り続けるというものだ。

 

つまり大野智は、愛そのものだ。

 

だってファンの子が智へ向けて放った愛であふれてるんだから。

アイドルとして当然!論はこれで決着ついてしまわない?

 

 

さて。本題に行こう。

 

ずっと、嵐の事しか祈ってないの、俺。

この言葉の破壊力が、伝わるだろうか。

相葉さんの先出の言葉に、涙を零して言ったこの言葉のとんでもなさが。

智はずっとずっと嵐の事“しか”「祈って」こなかった。

 

考えなきゃいけないことは、星の数程あったのだと思う。

人生、年齢、仕事、家族。それから、友達や‥生き方とか。選択して、迷って悩んで。

自分の事ならばそうやって、考えれば道は見えたかもしれないし、多分彼のことだからちゃんと見据えてたのだと思う。

 

でも、「嵐」は自分だけのものではない。

けれど自分はこの世界で唯一の「嵐のリーダー」だ。

リーダーとして、守らねばならない。

そこで智さんの手段が、

我が身を捧げて、祈り続ける

なのだったのだ、と

この時初めて目の当たりにした。

 

そして私には別の意味にも聞こえたんだよ。

 

ずっと、嵐と心中するつもりだったの、俺。

 

そんなつもりないよ、と智さんは笑うかもしれないし。そうさせない4人がいることもわかってるけれど。

彼が「命懸けの決断」と言う背景には、つまり。

一緒に死ぬくらいのつもりで祈り続けていたものを、「考えて」止めると、決断したからなのだろかと想像してしまったから。

 

酔っぱらった彼が、相葉さんの話でつい感情溢れちゃっただけでしょう?

って落ち着こうとする私が言うけれど。

でも「祈る」って行為と感覚が、ずっとずっと智さんの中にあったものだって。

ファンの子は知ってるんだよ。

 

 

 

(だからこそ、自分のことを忘れないでいてくれたことがとても嬉しかった。休止の意味の中に「自分の幸せを考える」ってのが含まれるのなら大賛成だ。我が身を犠牲に他の繁栄や幸福を祈る姿は美しいのかもしれない。けど、私は‥智にお腹空かせた虎の子の前にした釈迦になってほしい訳じゃなくて。彼が幸せだってことで幸福を感じたい。)  

 

 

 

 

では。最後に。

ただ単に、メンバー4人幸せになってくれればいいだけの話だからね

確か日経エンタだったかと。

Are you Happy?のこれまでになかった形(ソロとは別にプロデュース曲があること)についての話だったかと思う。

ニノは一万字インタビューの中で、

30代中盤にさしかかって、なんか一回一緒に心中してくれませんかっていうくらいのね。

悪い評価を受けた時に、一緒に死にませんかって言われてる気がして。

(抜粋)

 

と、新たな形についてはなしていて。

言葉の響きは明るいものではないけれど、ある意味では覚悟しかない言葉だと思うんだよ。

 

相葉さんの

降りてく景色も、5人で見たい

って言葉も同様、どうなったとしても空中分解させないっていう強い意志があって。

それはおそらく、翔さんやじゅーぅんも同じように持ち合わせてる「覚悟」で。

 

そうして思い馳せると、どうしても幸せな未来ってものが見えにくいんですよね。

覚悟と言うと、苦しさに耐えるイメージしかなくて。けれどそれくらいの強さが無ければ生き抜けない場所なのだろうし。

 

だから。きっと。

ずっと嵐の事しか祈ってない、そのひとつは

、ともすれば思い詰めてしまわないように「覚悟」から解き放つことを必要だと感じたのならば。

 

ただ単に、メンバー4人幸せになってくれればいいだけの話だからね

 

が、「嵐」だけじゃない幸福を、という事なのだとしたら。

あぁ、「愛とは僕です」に間違いはないと着地してしまうのです。

 

 

私は、15周年ハワイの多幸感を未だに忘れないのですけれども。

あの日の智さんの涙ほど美しいものはないのでは?って、行ってもないハワイのあの場の空気の匂いや湿度まで思い出すくらい濃いめに想ってるんですけれども。

 

それと同じくらい、胸の奥にその声を潜ませてる言葉があって。

その場に居なかったはずなのに、その声が脳内再生されるくらいしっかりと鎮座している。

 

つまり、今のこの全ては大野智からの愛だ。

しかも受け取り続けるという愛をくれてた人からの、とびきりの。

 

ちょっと何言ってんの?ってツッコミ入ったとしても大丈夫。伝家の宝刀がある。

 

あなたたちの記憶が

大野智そのものです

 

そう。

私の大野智は、私の記憶と同じなのだ。

私の中での彼は愛のかたまりだから、

つまりそれで正解なのだ。

 

と、言うところまで思い至って。

 

あぁ、やっぱり。

 

そんな万人万色な愛を、微笑んで受け取り続ける。

つまり大野智は、愛そのものだ。

 

 

(無理やりの着地)

 

 

 

 

休止から半年が過ぎて、やっと盤を観た日の話

 

2021年が半年過ぎようとしている。

つまり、愛おしさの権化大野智がお休みにはいって半年が経つ。

 

半年って、ここ最近の体感では「秒」。

いや、ちょっと言い過ぎか?

でも、不意に見たカレンダーが6月の下旬を示したのを見て、早。となるのはもう、アラフォーの積み重ねた日々で分母が、それなりのサイズになったが故だろう。

やむなし。

 

けれど、私はそこでセンチメンタルなスイッチを入れてしまった。

智さんが見えなくなって、半年。

この半年も、同じ体感だったな、と。

やたら長くもなかった。

ただ、ただ、いつものように時は流れたんだ。

そのことにホッとした。

で、そうあるべきなんだろうなぁ‥と思うと、やっぱり時の流れは優しいものだなぁと。

 

休止発表の直後から(なんなら、その前1年くらいずっと)、なんでだか微妙に頬が固かった智さんの表情が、発表半年過ぎたあたりでとても柔らかくなった気がしたことも思い出した。

 

ならばきっと、今頃とても気持ちが楽になって“やりたいこと”をやれるようになってるのかもしれないなぁと。

コロナ禍が悔やまれるけれど、そうだといいなぁとなんだか、すごいホッとした。

単純な時間的区切りなのかもしれないけれど、なんか妙にホッとした。

(きっとジャにのでの、にのみーの発言もあったからだと思う。)

 

現金なもので。

 

きっとたのしくすごしてる

幸せでいてくれる

護られて、護ってる

大丈夫

 

と、言い聞かせるように己の中に落とし込む不安感が、フワッと和らいできたら、「嵐に会いたいなぁ。歌い踊る、智さんに」とじんわり思って驚いた。

 

怖くてたまらんかったのです.

ずっと。

untitledはかろうじて、junctionのないYouTubeバージョンならみれた。

でも5×20は2018をどうしても再生できずに今いる。

 

なんというか。

答え合わせのような考えが、どんどん勝手に湧くだろうと。

ライブDVDを見て、単純に楽しくて幸せでワクワクしてた記憶が「そっか、この時はもしかしたら」「あぁ、だからこう言う風に」とオタクのこじつけ100パーセントみたいな解釈をどんどん上乗せしてしまうだろうと。

 

そうなったら、多分楽しいだけだったその想いってのは、もう戻ってこないだろうな、と。

 

解釈癖のあるオタな私は、それが怖くて見れなかったずっと。

untitledのYouTubeバージョンがみれたのは、最初っから怖かったからだと。untitledは「未完」事変でもそうだし、なんならuntitledって名前を知った瞬間から怖かったから。

むしろ答え合わせが、必要な世界だったんだろうな、私的に。

それでもjunctionは、なぜjunctionと呼んだのか?とかまで考えだして中身も相まってドツボに落ちるから無理。

 

 

 

なので。

半年経って。 

 

あ、Japonismみたい。

暁がみたい。

 

と思ったのは、確実に時に癒やされたのと。

半年経ってとてもやーからく笑った智さんのことを思い出したからなんだろうな。

 

休みの日に、ライブDVDを選んでいそいそと再生する。

チャプターじゃなく、最初から観て好きなとこ、たまらんとこをリピートする。

あぁ!スキーココスキーってわたわたするテンションを、ひたすら書き残すんだ!と、ブログ開けたら過去の私がもう十分にやっていて、ほぼ同じことを言っていて、変わらない己のアンテナにちょっと笑えた。

 

それから、嬉しかった。

脳内では槇原敬之が歌う。

 

好きなものをすーきーとー

言える気持ちーだきしめてたいー

 

多分、私今日、抱きしめた。

 

発売発表されて、必死こいて予約したドキドキも。フラゲ日に休みとるの忘れて落ち込んだのも、パッケージ初めて開けた時のニヤニヤした気持ちも。

それから時が経って

懐かしいな‥と思う気持ちも。

やっぱ大好きだなぁ‥とじんわり沁みる、あったかいものも。

 

2015年。Japonism。

暁はやっぱり美しくて、せつなくて。

歌詞を追う振りというのが、こんなにグッとくるのだなぁと。

つま先も爪の先まで行き届いた舞は、やっぱり神事のようで、美しければ美しいほどに遠くなる不思議。

 

それから、心の空の圧巻さ。

嵐16年目。

TIMEの時のような、熱さがありました。

一個上のフェーズに上がったかのような。

まさにThis is嵐な気概を感じたし、ぴんっと糸が張り詰めるような緊張感もあって、それがとても前向きに作用しているような。

そんな感覚でした。

その真っ只中の当時は、そんなこと思いもしなかったから、多分時が経ったことの醍醐味は解釈癖のある私にとれば、この休止の今とても意味があることと思えてきた。

 

新しい嵐が世に出ないと言うことは、

それを励みに生きてた身として、怪我をしても苦しくても、新たな癒しがなければ既に身となった過去のもので自己治癒するしかないのだと、しんどい事があるたびに呆然としたけれど。

 

私は今日、Japonismみてて思いました

智さんの顔の輪郭、耳の下あたりからの首あたりが、まるで大理石のようで蕩けてると。

そんな彼が、マスカレードのタンゴも昭和歌謡もジャニーズイズムもごった煮かえした世界を見事にまとめ上げた振りつけをし、水吹いちゃえ!って演出するなんだか舞台演劇のような感覚も、やっぱ大好きだなぁ!って。

 

それは新たではないけど、改めて沸いた「たまらん」って気持ちで。

 

私は今日久しぶりに、幸せだーと思いました。

嵐だいすきだなーと。

智さん、だいすきーと。

それがうれしーと。

 

明日から、また頑張る。

 

 

 

 

嵐は私の雨でした。(THE JOURNEYが届いた)

 

 

THE JOURNEYが届いた。

だから、ポエミーに独り言を吐こうと思う。

(ちょっと、センチメンタルに浸る)

 

THE JOURNEY。

巷では「聖書」なんて呼ばれてる通りに、分厚く嵐がつまっていた。

翔さんの綴った言葉達とともに、ひとつひとつめくるたびに、モノクロなのに色が見えて、なんなら匂いまで思い出してく。

けど、どうしてもそこは晴れやかな青空の下ではなく、ページが進むにつれコポコポと沈んでいく感覚があった。

まさに。

想い出の中を泳いでる。

深海だ。

 

 

2021年になって、嵐のいない日々が始まった。

メンバーの共演になんとか「嵐」を見て、話題にでる智さんの名前にホッとして、嵐が何も変わらないことになんとか安堵する。

そんな毎日が、1週間、半月、1ヶ月、3ヶ月‥と過ぎていき、気がつけばすっかりと景色は変わっていた。

 

雪も桜も過ぎた今となっては、それぞれはそれぞれの道をしっかり歩んでいて。

私がなんとか彼らに嵐を見ていた頃は、まだ「嵐」の中でいた(12月31日より以前の収録のもの)だったりするわけで。

 

3ヶ月経ったらば、当然「1人であるいてるそれぞれ」の姿だ。

時の流れは優しくて、そんな個々の道を見ながらそれを嬉しく思うのも本当で、これでよかったんだなと、妙にすとんと腹の中に落ちるものもあったりした。

 

そんな中。

もうすぐ半年経とうとする今、THE JOURNEYが届くというのは、わかってたとしてもあんまりにもぎゅーっと心を縛られてしまった。

 

装丁の美しさもあるけれど、紙を捲る音すら愛おしい。本当に、本当に久々に「嵐」に触れた気がした。

そして、今更ながら嵐は過去のもので、そこを辿ろうとすると想い出の中を泳ぐしか方法はないのだと改めて気がついた。

 

泳ぐ中に、大好きな智さんがいた。

FREE STYLE2020みたく、作品の前であぐら描いて座る姿。

真剣な眼差しの横顔。目尻が溶けそうな笑顔。スッと立つシルエット。

 

私の大好きなその姿は、嵐の中の智さんだった。思えば私は、嵐になった彼しか知らない。

泳いで見つける姿は全部、嵐である姿だ。

それが、なんだかとても。

信じられないような。

不思議な感覚だった。

現実にあった事だと思えないような。

本当にいたの?って、

 

まさに、夢のようだった。

 

うらはら。

ページをめぐる中、はらりと落ちた唯一の色に、とんでもなく感情が込み上げてしまった。

もう何年も何年も前のことのようで。

勝手に頭の中で、untitledのsong for youが浮かんだ。思い出をどんどん後ろに見たあの景色。

 

落ちた色を拾って、その日付に一度ぐっと堪えて。また最後のページに挟んで閉じた時、体に水が届いたような気がした。

 

沁みて、繋がっていくような。

 

こんなに思い出の中を泳いでいたのに、そこでやっと深呼吸した私は、やっと水分を得た。

 

嵐は、私の雨だったのだと思う。

しとしと降って潤って、時に体が浮きそうな程の暴風雨で。

私が歩くのに必要なものを育てる水が、嵐だったのだなと。

 

その中で智さんは道標で、その水をもって全てを包んでくれるような。

愛とは僕です、と言ったそのままで。

 

思い出の中を泳げば、私の中の智に会える。

「あなたたちの記憶が大野智そのものです」

その通りに。

 

新たに「嵐」に触れるのは、これが最後なんだろうかと、ぼんやりと思いつつ。

(円盤への期待がすこし遠のきつつ)

深海の底で、沈む時間があんまりにも心地よかったから、何かしら歩くのが辛くなったらTHE JOURNEYを開くだろうな。

いつもなら、いかに美しく保つかを考えるのだけれど。

こればっかりは、どれだけシワシワになろうとも、表紙に指紋がベトベトつこうとも、気にせずただただそばにいてもらおうと。

 

確かに。よりどころだ。

その点では、間違いなく聖書。

思い出を泳ぐための水脈。


いつでも会いに行く
何しているかなってまた空見て
とは言え 応えもなく もがいてる
また出てきた女々しさ
ただ照れ臭く ただ男の女々しさでした
Baby I love...
届いてる?
抜け出せず 思い出を未だ泳いでいる

 

愛(LOVE)のなかで、甘くも粗塩のように辛い海で泳ぐsugar and salt。

 

翔さんの言葉たちは、嵐とファンの子の真ん中にいるようでした。宮城のようでした。

 

嵐の音楽を愛してやってください、と涙浮かべて微笑んだJが脳裏に浮かぶ。

無邪気に愛した頃と、同じにはなれないけれど。この深海と地上の行き来が楽になる頃には多分、地上で嵐聴いてると思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シーラカンスになっても、降りようがない。

そこは変わらん。

暇を持て余した乱文

 

 

今更なことを、ボソボソと考えてて見たりしている。

多分随時増える。

 

嵐といえば、かつて「サブカルが過ぎる」と揶揄されてたりするほどに。

何を世に出すかというものは、世間の流行りや世界の流れも見つつも「でも今の嵐はこれじゃね?」的に内向きであった気がしていた。

 

作家陣においては所謂、私の世代で言うwith t のように、この人に書いて貰えばヒットするよね!ってビッグネームに曲提供をお願いするというよりは、へぇ‥スウェーデンの‥あ、スコットランドの?あ、有名なかたなんだぁ‥って事が断然多かった。

なので、クレジットをみても脳がまったくその作家さんを記憶していない(個人の能力別)

 

そんな中、米津玄師‥スガシカオ山下達郎なんて名前はガッツリと印象に残ってきた。

不思議なもので、それは割と「曲提供」というだけにならず「米津玄師と嵐がコラボした」という形で届いていたように思う。

嵐を表現するために、日本の著名な方から曲をもらうというよりか、嵐であるとこととその曲を歌う事が同列で並んでいるような。

伝わるだろうか。

 

なので、嵐が世界を見て動き出した時。

特にRebornシリーズが出始めた時。

J-popを連れてくよ!と高らかに歌った「turning up」の回答が示された気がしてワクワクしていた。

嵐のJ-popを“伝わりやすく”そして“今の自分達に合うメッセージ”へとブラッシュアップしてみせた。

そのJがアポ取りまくってたRebornシリーズのプロデューサー達は、ヤバいくらいすごい人たちだ。

名前だけ聞いてもまったくピンとこなくとも、調べてみたら、はぁ?!って皆様とお仕事なさる方々だ。

日本で言うなら(私の世代)、小室哲哉秋元康つんくも呼んじゃった!ぐらいだろう(想像)

 

不思議だった。

 

サブカルが過ぎる人たちが、著名な手を‥言葉はよろしくないが手当たり次第‥?くらいに広げてるようで。

 

Japonismをあれだけのレベルで作り上げた人たちだ。

これが嵐なんですよ?と解禁したらば、じわじわと、ゆっくりとでもある層には広がっていったんじゃないかなと思う。

見て!と広げなくとも、見つかったと思う。

 

例えばインスタのように俺の店、寄ってく?といわれたら、ただただ吸い込まれてくだろう姿しか見えない。

で、呼んどいてほったかされて酒すらセルフサービスな世界しか見えない(でも奥でめちゃうまいの食べさせようと、鍋作ってる)

だから少し‥らしくない、気がする‥と思っていた。

 

でもさ。

 

嵐は世界相手に、何か一点どすんと一つきっかけを作りたかったんだなぁと、今なら思う。

 

扉を開けて、見てってよってゆっくり構える時間はなかったんだから。

できる手段、持てるツテ、可能な限り広げて何か一つ、J-popをスキヤキから更新していって、道を繋げようとしたんだろうなと。

自分達だけじゃなく、後輩達のためにも。

僕らがつないでく、から。

 

なんの根拠もないけれど。

私、BTSのdynamiteとDo you‥?は同じ系譜だと思うんだ。

 

キャリアもあるグループが、ガチガチにキメるんじゃなくて、肩の力抜いて、なんならちょっとダサくもある。

けど、その余裕のある感じが色気になる。

更に、その香りがこっくりしてるのに爽やかっていう絶妙なバランス。

完熟のマンゴーのような。

 

グラミーノミネートのdynamiteは、k-popを代表する曲になると思う。

と、言うかもはやその壁は曖昧な気がする。今の音楽シーンに、KとかJとかアジアン、アイリッシュ、ブリティッシュ‥なんて、もはや出身地にしかならなくなってるかもしれない。

というか、私の大好きなサヴェージガーデンだって、オーストラリアから世界にって言われたけど、ユニットのダニエルはイギリス出身だ。

もっというと、ヴォーカルのダレンは高校生の私を秒で射抜く美貌と声をもってて、まもなく割とさっと結婚した。かと思ったら、のちに同性婚してる。

音楽と作る人にも、そこになんかの区切りや境目はもう存在しないんだよ。

 

逸れた。

 

 

つまり嵐が、これぞ嵐と銘打ちリードにした曲は、ちゃんと世界水準じゃん、って。

 

2020注目!なアーティストの曲を聴くと、いわゆるシティポップと呼ばれるものがやっぱ多くて、Vaundyしかり華やかと気怠さを同居させたものが目立つ気がする。

または、ヨルシカのようにほんのり御伽草子を感じるファンタジーでPOPな世界。YOASOBIもか。いつも混ざる、ここ。

 

もうなんの話かわからないけど。

 

時間に制限があったから、世界に打って出たのだと思う。

で、時間に限りがあったから、持てる最短で最大ルートを活用したのだと思う。

その先にブルーノマーズがいるとか、もうやっぱ只者ではない。

嵐の音楽をサブスク解禁したことは、とはいえ世界にうつためだけではない。

Jの言う通り、CD時代とともに無くならせたくないから。

塩化ビニールの盤の寿命は20年と聞く。

デビュー曲の盤が、劣化し始めるのもいまだ。

っていうか、8インチが聴ける環境もほぼ消えつつある。

嵐の音楽が、「環境に伴わず世から消える」なんて私だって嫌だ。

 

JPOPを連れてと歌うけど、たしかにその代表選手でもあるけれど。

彼らが連れてった「ARASHI」は、やっぱり嵐だったと思う。

Rebornにこもったメッセージは、英語詞だけど、「ずっと応援してたからわかる」もので埋め尽くされてたし(もちろん、世界にいるだろうファンへも)。

 

さて。

寂しいなんて思う間もないくらいに寂しくて。

ただ、毎日を生きていれば与えられた「姿」を、過去から探して見つけて、好きだなぁと思う度に遠いなぁとメンタル豆腐にしながら、その時の思い出も蘇って来たり。 

覚えてるよ。 

LOVEのフラゲ日は雨だったよ。 

初めてhitを聞いた時、雨降ってたから、震えたよ。泡の消えそうなグラスの中にいるみたいだったよ。

デジコンなんて、諸事情で肉眼で焼き付けたからね。

 

智に会いたいなぁと、思う。

けど、射手座占いによると、とても今充実してるみたいだし。こんなご時世だけど、縛られない生活はきっと心を守るだろうし。

あなたが幸せであれと願う人が私の周りにもたくさんいるから、泣きながらでも会えなくなっても、あなたの幸せだけを祈る人がいっぱいいるから。

心強いでございます。

 

そう。多分この立ち位置は寮母。

あまりにも生粋の射手座だから、ついつい重ねてホッとしてしまう、オカンのようで違う謎の生き物。世話を焼きたいと、ヤキモキしてる近所のおばさんだ。

 

嵐は休止した。

多分、智さんの中では「終えた」

 

いつか、またね。

と言った顔を思い出す度、不思議とあの白い衣装とのチグハグな印象を思い出す。

あの瞬間、多分個の顔だった気がしてる。

大野智を見て来て、初めて衣装似合ってないと思った。あの一瞬。

 

そのあとの後ろ姿は、恐ろしいほど綺麗でたまらなかったのに。

 

足元でパグちゃんが吠えてるだろうか。

急にずっとそばにいる主にパグちゃん狂喜乱舞じゃないだろうか。

いや、主に似たならそっと別の部屋で寝ちゃうだろうか。自分の好きなことやりに。

 

足だけでも、指先だけでも、なんなら彼発信の彼の様子を見れたなら、影でも鍋でもランタンでも十分なんだけれど。

 

それがないってことは、彼が普通に日常を過ごしてるってことだろうと思うから。

まぁ、いっか。

 

 

 

 

FS2020大阪と私。(展示内容についても触れる)

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大丈夫。フリスタがある。

 

そんな風に私は、まだどこかで余裕ぶっこいていたのだと、今更まざまざと思い知った。

 

あほか、私。

 

 

 

 

 

あれ。緊張してない。

FREESTYLE 2020大阪。

その入場に並びながら思った。

 

同じ場所で5年前…FS2に行った際はとんでもなく緊張してた。

と、いうか戸惑っていた。

 

見たくて感じたくてその空間にいきたくて仕方なくて、東京に続き大阪も開催されると知った時は、マジで雄叫びあげた。

チケット販売日当日。友人たちとの連絡を密にし、まるでシンセサイザーに囲まれた小室哲哉のように家中のあらゆる機器を同時進行で操り、なんとか抑えたチケット。

しかし取れた時間帯は、当時幼児を抱えた身には厳しかった。くっ‥これまでか‥諦めざるを‥というところで、更に救いの手が差し伸べられた。

(お姉さまへ今改めて感謝申し上げ候) 

 

そんな奇跡が重なって、行ける‥!っていう大興奮で乗り込んだにも関わらず。入場列で、私は無言。同行の友と共に、脳みそはグルグル回るのに感情の行き先がわからなくなってた。

 

今思えば、2015年。

色々あった後での大阪会場だった。

その辺もまだ胸にあったし、FSには不参加だったものだから、「初めてみる実物」への興奮もあった。

テンションは上のホーで、ずりずりと保たれて、見ていいのかな‥?な緊張感も、そのうちに作品を楽しむスパイスになり、どれほどはしゃいでいたかは、当時その日のうちに書き殴ってるのでそちらを参照してください。←

 

itsukanosummer.hatenablog.com

 

最後に自画像を見て、言葉なくして呆然となった私がいます。

(自画像前で私を放置してくれた友にも感謝)

(そして、展覧会で再会した自画像はまた、まったく印象がちがった。←別記事)

 

 

 

あの時と同じ場所。

 

否が応にも思い出す当時の感情や景色は、会話も控えめにという、このご時世ゆえのものでだんだん私の中に蓄積されていった。

FREE STYLE 2020 は日記帳をこっそりのぞき観た感覚のFS2とは全く違っていた。

FS2は記憶ベースの印象では、大野庵以外はとても明るかった。

地下とは思えないような大きな白い空間。最後の自画像なんて眩しすぎて、壁に直接描かれてるんだと誤解して覚えていたほど。

FS2020は、穴倉にいるようだった。落ち着いた照明と、進むごとに変わる景色。

歩く両脇に、ぽとん、ぽとんと絵具(作品)が一滴一滴落ちている感覚。歩いてる通路はうっすらと水が流れていて、その両脇の色をちょっとずつ吸いこみながら流れてる。

そんな印象だった。

わぁ!とテンション上がって「へー!ほー!」というより、じわぁと沁み込んできた。

おそらく、嵐が休止して智さん自身もお休みの時期だからだろうと思う。

っていうか、私が寂しかったんだと思う。

 

感染対策としても、人の流れをつくるためなのだろう。

3つのブロックに分けられていて、「ここ越えたら、もう戻れないよ」のポイントがあった。

それを一個超えるたびに切なかった。いろんな色が混ざりすぎないよう、水流を止めた堰のよう。

 

 

 絵を語る学はないので、箇条書きに。

  • ちょんまげの子 裏の〇が表に出てきてる。年月感じる。
  • サイトウくんたち 久しぶりに会ったな。よぉ、変わんねぇな。
  • フィギュアたち どうしてもこの子たちの顔が智さんに見えてくる。この子の数ぶんくらいの智さんがいたんだろうな。
  • 色をやるシリーズ。真ん中を横切る黒の圧。無意識に5色を探す。で、この人を5色で縛る発想をしてることに、だいぶ反省。一個ものすごいぞわっときたのがあった。なんか、叫んでるみたいだった。
  • タツノオトシゴ 線の艶。描き込みのえげつなさ。勢い。強い。
  • ちゃぶだい あれ?鍋の痕跡ないな(めちゃ綺麗)
  • カイト 美しくて甘い。無駄なものがない。ちゃぶ台との落差。
  • ツボ智 会いたかったよ。てっぺんの色変わらずだね。
  • パグとパグとパグ 三匹に見つめられる一点に立つ。愛しさと切なさと心強さ。引き算のパグの真ん中に、これでもかってくらいの“詰まった”パグ。
  • ジャニーさん。メカでもサイボーグでも何でもいいから生き返るんじゃないかと思った。眩しかった。生命力満ちてた。不思議。
  • 24時間チャリT原画 面の美しさにびっくりした。
  • 白シャツ智×3 着てるシャツがどんどん大人びてる。08の智がこんなに下唇ぽってりだったか…?2015に閉塞感。
  • 二点テスト 隅っこも隅っこに展示。字がきれい。愛おしい。
  • ガマドン ケースに皮?がつけてあってアフロも箱の上に鎮座。かわいい。
  • 細密画 そうか枠はシルバーだったのか…。見れば見るほどなにかを探してしまうので、一歩下がる。あれだけ書き込んでるのに混沌としてない。色も差し込まれてて洗練。星空みてるみたい。
  • 映像 ドシュール。そうだわ。ソロコンでジャージ着てパントマイムする人だった…。笑っちゃうのにいちいち綺麗。映像入る手前に、床?を壁として展示。その隙間に白いスニーカー。ローラースケート置いてった光GENNJIじゃないですよね。ステージと靴とか。オタクは深読みして困る。

 

 そして、最後の部屋からでる細い通路。

その前には黒シャツ智が大きくいました。

 

作品集でも見ていた写真。なのに、妙に鳥肌が立って泣けてきてしまった。

FS2で自画像を見た時と似た感覚。ぞわっと込みあげてきてしまって、何と形容すべきか言葉を探すけれど、どうにも見つからなかった。

 

(帰って、どうにも落ち着かなくて、作品集を開いた。

2020…2…FS…と遡っていって、もう一回、それぞれ頭書きをみた。

それがすべての気がして、黒シャツ智へのあの鳥肌も、色の混ざった水流のたどり着いた先…その姿をドンと見た気になったんだろうな。)

 

これヤバい。

来ちゃう。ねじ切れそうな、震える夜が来る。

会いにいったはずなのに、そんでもない「区切り」を感じてる。

ぐおおおおおぉっと迫る寂しさを柔らかくしたのが、出口ギリギリの写真たちだった。

アラフェスのステージで、フィギュアたちを連れていって取られた写真。

真っ青の箱の中におさめられた何枚かの、最後の最後。出口の際にあったのが、

いつものデニムシャツで、ステージを歩く大野智の後ろ姿だった。

「またね。」

が浮かんだ。

 

大野智、青。

 

そんなのも多分、もういらない枠なのかもしれない。

作品に5色あれば嵐だ!って受け取っちゃう視点。その枠。

そうだよなぁ。ひとつそのメガネがあるんだよなぁと。

 

多分、これまでで一番「嵐」を入れ込んだ個展。

細密画にも、ワクワクの絵にも。大野庵のじゅーぅんの作品にしても。

 

でも、「嵐 大野智」を不思議なほど感じなかった。

「ただの大野智でいいと思う」

いつか彼がそう言ったように、30年分くらいのただの彼がいた。

 

「おおきに ありがとう」

 

って謝謝の時のように描いてくれたんだろうなぁって壁を横に、おおきにって!もはやうちの親(さんまさん)世代でギリだよ!なんて泣き笑いで突っ込みながら、ワクワクの時の自画像を見る。白く左を塗っていたあの時のから、カラフルにはっきりと塗り分けられた絵に、妙にホッとした。

よかった、とおもった。

 

その時々の色を拾い、モノクロの絵からカラフルに、影響も突破口も、どん詰まりも別れ道も水流はゆっくり漂って掬って溶け込んで。

そして、黒シャツの智にたどり着いたのなら私が見たのは大野智の人生だ。

彼が表した、彼の手による、大野智の人生。

 

『辿りつきたい場所』をもったとき

無私の心で描く力を失った

「好きなものを」「楽しんで」という言葉は美しい

----でも その 何と 難しいことか

ハチミツとクローバー 花本はぐみ】

 

 FS2で彼はずっと、その苦悩に触れている。

2020。5年経った今、“色をやるのが楽しい”が続いていればいいなと思う。

また買っちゃったんだよね、ってキャンパスに「好きなものを」「楽しんで」な心があるといいなと願う。

 

アラフェスの後ろ姿と相まって、私は多分。

 

ここに来てやっと「大野智」に、手を振ったのだと思う。

 

 

雨だ。

修ちゃんは雨に似てる。

姿を見るだけでほっとする…泣きたくなってしまう。

(中略)

そうだ 修ちゃんは きっと 私の雨だ。

一緒にいると深く息ができて

草や木みたいに ぐんぐんのびていけそうな気がする

いつも困ったような顔で 優しく笑う。

私の大事な 大事な人

 

ハチミツとクローバー より】

 

 

 

じゃぁね。

またね。

 

 

 

 

2021.1.23 追記

口に出したら、もう止まらなくなると思って知らんぷり見ないふりしてたけど。

この後、フツーに

「寂しいよ。」「会いたいなぁ。」

って声に出すようになってもた。

でも、多分。それでいい気がしてる。

寂しくて当たり前なんだし、あいたくなっても不思議じゃないんだな、と。うん。

いいよね。

 

 

Love so sweet がThis is 嵐を締めた事を想う。

なんで最後がラブソぅなんだろう?

 

12/31に見ている時、“明けない夜はない”そればかりが頭に残ってしまっていた。

紅白でも言ったそのワードは、例えば「休止期間が終わる事」と「コロナ禍が過ぎること」のどちらにもとれるよう意図したのかもしれない。

万人にもあなたにも向けた言葉として、何が明けるのかは個々に委ねられたのかな、なんて。

キワキワにいるオタとしてはそんなふうに受け取っていた。

 

だから、ここでラブソぅをラストに持ってきたのは「明けない夜はない」「信じることが全て」その2ワードのために選曲されたのかなと。

 

ところで私、Love so sweetって恋が始まる曲だと思ってた。

 

イントロなったら恋がときめいて、その瞬間からキラキラと光出すんだと思ってた。

花男の主題歌だとがっつり脳に染み込んでるからかもしれない。

だから少しだけ、違和感があった。

最後の終わりにきらめいて始まる曲があることに。新しい道を祝したのかな。

そんなふうに、なんとなく納得した年末。

 

 

 

This is 嵐Live。リピート配信を見た。

 

やっと沁みた。

歌詞がちゃんと届いてきた。

あぁ、そっか‥やっとわかった気がした。

Love so sweetは、そばにいない人へ想いを馳せる曲だ。

しかも、空へその想いをのせる歌だ。

 

泣きながら見上げて、揺れた月はたぶん笑って見えるだろう。

どうしてるのかな?と思い出す時、空を見てしまうだろう。

思わず手を伸ばして、届けと祈ったり思ったりするんだろう。

 

Love so sweet は、2021からのファンの子への歌だ。

 

この曲で「嵐 第一章」を締めた松本潤の意図を、ロマンチストだなぁで終わらすにはあまりにもったいない気がしてきた。

あんまりにも、あったかいメッセージだ。

 

いつか、があるかどうかなんぞわからない。

むしろ無い方が5人のためなのかも知れない。

 

思えば、迷宮ラブソングは、今や巷では再会(再開)を意図したのでは‥な、あのタワーを5人が背中に背負って囲んでる。

 

あれが本当に、再開を込めたものだとして。

それにファンの子の思いを光にして集めたアンテナのような演出も込みで。

そんな願いの象徴のようなものを背負って、5人で囲んで、「誰かが君を惑わせ 迷宮に迷い込んでも 僕がきっと その手を強く引くよ」と歌うのだ。

しかも、個々に持ってる未来に続くピースは、蒼く光るのだ。

 

こんなガッチガチに届け、伝われと演出する人が、ラブソぅを「明けない夜はない」の一言だけで選曲して、しかも音楽は終わらないと示した後に持ってくるには、あまりにも薄い気がする。

 

 

そう、思えば。

 

想い出ずっと ずっと忘れない空

ふたりが離れていっても
こんな好きな人に 出逢う季節二度とない
光ってもっと最高のLady

きっとそっと想い届く
信じることがすべて Love so sweet

 

ただ、ただ。この部分なのだと思う。

嵐がやんで、離れていてもこんな幸せな時間なかったよね!と。だからこそ、これからの時間あなたたちも光っていてねと。

嵐ファン最高!って、インスタで言ったじゅーぅんがそこにいるんじゃないだろうか。

 

そして、想いはそっと届く。

嵐からも、嵐へもきっと。

 

これから先、嵐の活動がない日々がどんどん日常になっていく。

私のような青い沼の住人は、推しが見えない世界に突入している。

 

それがどれだけつづくのかわからないし、終わらないのかも知れない。

いろんな他の好きなものかき集めて、まだ穴が空いたと気が付かない今を、のちには何とか埋めようとするかも知れない。

明日になったら猛烈に寂しくなるかも知れないし、来週になったら撮りためた番組でまた笑ってるかも知れない。

で、来月になってまたボーっとするのかも。

 

でも。ラブソぅで言ってるじゃないか。

(歌ってなかった気がするけど)

 

曲がりくねってた ふたつの旅路は
ここでひとつ 虹になれ

 

嵐である道と、そうでない道。

いつかまた、5つの旅路の交点の先に、

5色あつまって虹になる日が来るかも知れない。

嵐がやんで、虹がかかる。

 

Love so sweetは、そうやって語りかけてる曲だ。

嵐の最後の最後に、

 

信じることがすべて

Love(ねぇ、僕のsugar?)

so sweet (とっても愛おしいよ)

 

と。

 

ならば。

最高のladyとして日々、光っていよう。

そして、空に向かって思いを放とうではないか。

 

ねぇ、嵐さん。

とてもあなたが、愛おしいですよ

(智さん。お元気ですか?)

 

伝えきれぬ愛しさは
花になって 街に降って
どこにいても君を“ここ"に感じてる

 

“ここ”に音楽が流れてる。

The music never ends。

 

 

 

ここから先は、別のお話。大野智の挨拶から。

 

もっとちゃんと、ゆっくり飲み込んで考えて。

そして書き残す方が良いのでは‥と思わないこともない。

 

だから、なんだかフワフワとしてる。 

Twitterで散々呟いたことを、ただまとめるだけの、そんなの!ただのオタクの戯言じゃないのさ!って笑う私もいるのだけれど。

 

そもそも、何をどれだけ考え込んだところで、結局はオタクの戯言でしかないのだよ。

 

じゃぁ。

これが、いま、NOW。

2021.1.1の想いだよと置いておいてもいいかと。

 

 

 

This is 嵐Live。

素晴らしかった。無観客なの逆手に取った巨大なステージ。本来、スタッフが忙しなく動き回るだろうステージ下まで、うまく使い切っていた。

嵐、すごいな‥。最後の最後に、オンラインライブの最高峰打ち出して、旅立ってくとか‥爪痕残しすぎでしょぅ?

 

さて。

そんな脳ある鷹が隠してた牙見事に跡を残したところで、智さんの最後の挨拶がネット記事にも上がってました。

 

私、智さんは泣かないだろうなと思ってたんですよ。多分、翔さんとの約束だと思ったらなんかのモードに切り替えてでも、涙は封印するだろうなと。(でも、それでも溢れちゃうのかなぁ‥なんて、ぼんやり思ったりもした。) 

 

ただ、印象として、

泣けるのは、明日があるから

ってのもある。

明日、また集まって「泣いちゃったよ」って話せるからで。続くからで。

だからその瞬間に、まだ続く道の途中に涙こぼしてまた歩ける。

歩く道がある。

 

「最後まで笑っていよう」を、守り通すことは、どこか義理を果たすような‥会見でも言ってたこの言葉は、智さんの中に相当大きく鎮座しただろうと思うから。

 

智さんの挨拶は、そんな背景もあったからなのか、とても美しくて、とても痛くて、やっぱり強かった。

 

4人への感謝として「人間性」を上げた根本にあるのが、「人はすぐ変わります」なのだと思うと、その瞬間に悟ってしまった。

 

智さんは、本当は全部全部“わかって”いたんだなぁと。

この際だからオブラートも捨てるけれども。

数々の報道においてのファンの反応も、

ファンの子達の中で起きる望むものの差も、

求める姿の違いも、

単純に彼のそばに居ただろう人への想いも、

知ることのなんかない、不都合がたくさん降りかかっていたのだろう。

 

そんな中で、ただただ信じられる人が4人だったのかもしれない。変わらないのは、多分、見た目とか性格とかだけじゃなくて。

お互いへ向ける信頼と尊敬なんだろうなって。

 

何かをしてくれるだけじゃなくて、嫌なことは絶対しないって言う信頼。

 

13年ごろ、人間不信な発言もあった。友達だと思って話したことが、表に出たりする、と。

たしかに、ファンレベルでさえ、大丈夫なの?な事もあったりした。

それすらも「人間ってそう言うものかもね」と言った彼は、その少し前には「もう、自分がいる事で誰かが喜ぶならそれでいいや」と言ってて。

嘘をつきたくない。って言ったのも、それくらいの保身、誰だって当たり前にやる事なのに‥!って。

どんどん何かを諦めていくようで、怖かった。

 

でも、そこにいる智さんは周りでどんなことが起きようとも無関心な様子で。

みんなが知ってるような流行りや話題も、興味なさげに笑っていて。

だからその瞬間瞬間でもつ「怖い」って想いも忘れて、智さんに甘えてしまってきた。

 

聞こえてない、知らないフリをしてくれてたんだな、と。

こんな最後の最後に彼からこぼされるまで、ちゃんとわかってなかったんだなと、ものすごくグサリと刺さった。

 

改めて考えりゃ、そりゃそうだよね。

あの人がさ、ファンの子の様子を気にしないわけないんだわ。

 

その一方で21年経って、「明日からは自分の事を考えて、自分の時間を大切に生きてみようかな」と、言ってくれたのが、嬉しかった。

 

ちゃんと全部“わかって”る彼が、人のためにと動き続けた彼が、自分のために生きるって選択をした事も。いろんなことを諦めてきただろう彼が、自分の幸せを諦めてしまわないでくれたことも。

こんな今更の最後に、よかった‥と。

 

それにね? 

 

嫌なことも嬉しいこともたくさんあったけど、同時にファンのみんなにもいろんな思いにさせてしまいました。

 

何よりファンの皆さん。

今日までついてきてくれて、

今日まで支えてくれて、

そして今日まで守ってくれて

本当に感謝しています

 

守ってくれて。そのワードが出るのが、大野智でした。ファンの子に、守られていると感じてくれることが。

 

同時にいろんな思いにさせてしまったのはこちらも同じ。

なのに、どこか彼の中で作品集しかりパグちゃんしかり、後悔の色があんまりにも色濃くて。

それこそ、いろんな意見があって当たり前なんだけども。

私としては、その後悔に待ったをかけたい。

 

 

 

 

 

彼が彼の幸せのために行動する事で、待ったをかける声にはもう十分耳を貸してきたと思う。

上毛新聞で、自分の思うようにやってもいい時期と話した先にあるのが今なら、それをこぼしてから十分な年月かけてきてる。

 

今日1日、どんな思いが彼を巡ったろうと、想像してみたりもするけれど。

それを語る場は、必要ないのかもしれない。

 

またいつか、人のために。

 

それがどんな形であっても

 

例え、同じ世界に戻ることなどないとしても、いつかの交点の先に

同じ形など存在しないだろうから。

ちゃんと美しく、ちゃんと全部わかって尚。幕を下ろしたのだから、盛大な拍手と感謝しかない

 

またねっ!ありがとぅ!(´・∀・`)

 

完全、映画のラストシーンだった。

 

つまり、

ここから先はまた、別のお話。