6月だ。
2022年の6月になった。
1年半経った。
なんだか、ぼんやりとしてしまってる。
どうしたものだか。
記憶というものは、聴覚・視覚・触覚・味覚・嗅覚の順で消えていくものらしい。
なるほど。
ふと思い出す記憶は、なんとなく匂いに紐づいてることが多い。夏のむせかえるような草木の匂いと、その時見た景色とか、春のこもった香りと白く霞んだ視界とか.
しかしだ、ちょっとまて。
その話でいくと私は智の声から忘れてくことになる。
そんなわけあるかい、とツッコミながらも休止から1年半経って感じるのは記憶がそおっと霞のように薄れてく感覚だ。
ほんとに嵐いたよね?
大野智ってたしかに居たんだよね?
間違いないことまで薄らと滲むくらいには、時間が経ったのかもしれない。
そんなもわっとした気持ちの中に、入り込んできたのが先日の夜会での「歌詞を語るショウサクライ」であり、にのみのカバーアルバム。
割と智さん寄りの場所で息してるけれど、にのみの音楽センスやカバーの良さはだいぶ好みであるし、安藤裕子で20代を過ごした私にとってラジオでの、「のうぜんかつら」のカバーはとてもとても“にのらしい”ものだった。選曲もその表現の仕方も。ミセスの「Attitude 」もそうだ。
「happiness」のメロラインを絶対ピアノなんだよなーって呟くような感覚が、そこには詰まってると思うし、この感覚でまらしい氏を起用したりしてきたのだろうなと。
全てがしっかりニノ軸の音楽だ。カバーアルバムでもそこがブレずにあるのだろうと思う。
思うから、なんというか、うん。
私は、ちょっと嫉妬してしまった。
で、先日の夜会を見て、翔さんの中の“音楽”が少しばかり過去の話として語られている事にぞわっとなった。
星野源を迎え、みんなで歌詞について語り合い宇多田ヒカルの「first Love」を恋心として出してきた翔さんは、ものすごくショウサクライだったし、やはりそこでも景色や物語を見るのだなと思うとかつてラジオで、「二人の記念日」の“ベルなろうとも少しの不在”を語る翔さんと同じように思えてちょっと上がった。
そうしたら。
なんだか、智の声がとてもとても恋しくて。
1年半経って縋るように聴きあさりだした。
リアルタイムで聞いていたときは、歌割りがどうとか、今のフレーズいままでなら智さんが担当だったよなとか、余計にあれもこれも「今までと違う」事に敏感になって、アホな私は元に戻ればいいのにと祈り続けたりしていて。
とてもとても、もったいないことをしたんだなと。
あの時の大野智は、あの時にしかいなかったし、あの時の嵐の音楽がそこにあったというのに、溢れすぎて麻痺してたんだろうな。
智が恋しいです。
でも、彼が今フツーに生活していて、それで日常が済んでいるのならば、その方が良い。
でも、声から忘れる人間の私は、“まぶた閉じ浮かべた そこには褪せない世界”のはずが、ゆっくりと褪せはしなくとも輪郭がぼんやりしてくるのを感じてる。
そこに色はあるのに、あったはずの形が読み取り辛くなっていく。
だから、更新せねばならん。
星野源は、愛とはそこにふわっとあるものだ
と言ってた
じゅーぅんは、これからも嵐の音楽を愛してくださいと言った
智はあなたの記憶が大野智そのものだ、といった
愛とは僕です、とも。
恋しくて、過去に戻りたくなってしまうのは多分、輪郭を取り戻す作業なのだと思う。
夢だったのかと思うくらい、色だけを残してそこにふわっとある感情に、もう一度名前と形をつける事は、多分今後の私を支えるんだろう。
つまり。寂しい。それだけ。