私はわりかし悲観的な人間なもので。
何か物事が動いたときに、最悪のパターンを考えてしまう。
けれど基本的に、感覚で生きてきているが故に、その「考えてしまう」も、事象として起きる何かというより、自分の中のもののことになる。
そんな私が、休止発表の際約2年もの期間を用意された事でまず怯えたのは、「これ、もつのか?」だった。
会見自体は伝えていることの内容が嘘のように、穏やかで誠実で、とても嵐らしいほっこりさまであって、私は何を言われたのかと理解に時間かかったくらいだった
あれ?ファンクラブ動画見ただけじゃないの?ってくらい。
だから、1番ぐさりときたのはおそらく直後のMステだ。
安心と同時に、あまりに強張った表情で、ただただそこに立とうとするような智さんを見たときだと思う。
あぁ、あと2年この想いに耐えなきゃならないんだ。
じわじわ、真綿で首絞められるみたいに‥ひとつひとつ終わりを数えてくんだ。
と。悲観な妄想でこれまでひたすら欲しがった己を責めた。
ところがだ。
この2年の期間も、あとわずか2ヶ月と少しの今になって、ひたすらに。
ひたすらにこの期間を用意してくれたことに感謝をしてる。
真綿で首絞められるどころか、ふっかふか羽毛布団に包まれてしまった。
姿を見るたびに、奥歯噛むんだと思ってたのに、これ以上ないほどの安堵と暖かさを受け取ってる。
ヒロシさんとのソロキャンプも。
大野丸の釣りも。
楽しそうで幸せそうで、笑顔の智さんを見てる今。到底自分でも信じられないけど、あれほど失いたくないと、全身で駄々こねて泣き叫んでしまいそうだったというのに。
早く彼に時間を、とさえ思ってる。
この人が自由になったとき、どれだけ楽しそうにするだろうって思うと楽しみですらある。
その、究極じゃないかってのが奈良さんとのコーナーだった。
同じ時期に同じ場所で個展を開くという奇跡にも鼻息あらくなるけれど、智さんが奈良さんの作品や人について語るとき、ほぼその姿や言葉は、推しを語るオタとつうじるものがあったし、なにより心からの尊敬や親愛が見えた気がした。
来年からのことを、創作活動のことを、まるで触れたらダメなtabooのように、どこか腫れ物のようにうっすらまとわりついてたオブラート。
それをやんわり溶かして、あんなにフツーのこととして話してくれた。
どれだけそれが嬉しいことなのか。
奈良さんの前だったからなのか、そこに構える言葉もなく、ただゆっくりと「思う」を溢してたことが、どれだけ安堵したか。
思えば。フリスタ2は、奈良さんがいなければ開催されなかったかもしれない。
作品もきっと、まるで違ったと思う。
見せる作品、と言うスタンスをひたすらに迷って当然なんだ。だってもともとは、そんなつもりなく自分のためにやってきたことだったんだから。
奈良さんが、「それでも描くんだ」と言ってたというフリスタ2から今。
2年かけて徐々に真綿で絞められてくんだ、と悲観しかなかったあれから今。
私の見てる大野智は、とても幸せそうですよ。
とても穏やかで、柔らかい。
陽だまりのよう。
この2年に感謝する。
20周年ツアーとともに終わっていたら、多分私は心配で寂しくて怖くて、辛くないのか苦しくないのかと、ただただ智さんの心が無事でありますようと、祈るばかりだったかもしれない。
正直怖かった、と涙とともに話す姿が最後だったら。
そう思うと震えがくる。
多分、このまま時が流れたら。
2021、楽しそうにキャンプしてる姿を思い出すだろうし、奈良さんと旅に出てるかもとニヤニヤするし、旅先で拾ったダンボールに日記のように描いてみては、まじまじと眺めてたりするかもと私の中の大野智は、とにもかくにも幸せそうだ。
この2年に感謝する。